今年もセミが鳴き始めました。家の近くではちょうど7月1日から鳴き始めて、下期突入と共に鳴き始めるなんて律儀なセミたちと思ったのですが、いつもセミの声で思い出すのは・・・
自分が大学進学で東京に住み始めたころ、東京生まれ・育ちの友人と話していて
「今年もセミが鳴き始めたね」
友人「ほんとセミって一日中うるさいよね」
「いやいや、夜は鳴かないでしょ」
友人「は?一日中鳴いてんじゃん!?何言ってんの?」というちょっと冷たい目。
おいおい都会のボーイは何言ってんだい、と思ったわけですが、これがまた見事なほど都会セミたちは盛大に夜中もミンミン鳴いているわけです。街灯が明るくて昼間と誤認するのか、昼夜問わず鳴き続けるんですね。正直びっくりしました。
今でも思い出すたびに考えるのは、自分の「当たり前」と彼の「当たり前」は違う、というシンプルなこと。こんなに小さなことでも、セミが「一日中鳴く」「昼間だけ鳴く」をお互いが当たり前に「当たり前」だと思っていたことに驚いたのです。
当たり前。。。
○○して当たり前、○○してもらって当たり前、○○しなくて当たり前
この当たり前という感覚は、継続的な確認と合意によって作られていくので、それを怠ったとき、意見や意識はバラバラになっていきます。
猛烈サラリーマン24時間働いて当たり前・週休2日で残業は無しが当たり前。どちらも主張する側に立てばそれぞれの理由があって、当たり前で、それでも一緒に働いたり、生きていったりする上では認識をあわせていく必要があります。
例えば、地球が平らなのは当たり前だ!は見事にひっくり返り、地球は丸いが当たり前、と認識されていますが、地動説を言い始めた時には迫害されたといいまます。一方的な「当たり前」を押し付けるのは暴力以外の何物でもありません。
他にも、日本人にとっては、新幹線や電車が時間どおりに来るのが“当たり前”で、数分遅れるとイライラ(自分もしていました)。外国人からみると時間通りに来て日本はすごい、となったりします。
“当たり前”ってなに?なんで?なにを当たり前にする?
当たり前は時間とともに変化するので、当たり前と思われることを一回フラットに見てみる・議論・合意・継続的なチェックを繰り返していくことが大切だと思います。
セミが鳴くたびに思う“当たり前”の話でした。
(先日里山で久しぶりにカタツムリを見つけました。子どものころは当たり前に身の回りにいたけど東京ではなかなか見なかったな)
余談・・・「寝なくて当たり前」
セミは地中から外界に出て1週間の寿命と言いますが、夜寝ない分3日では死なないと思うので田舎のセミの2倍のセミ人生を生きているのか早死にするのかな。自分も働き始めて最初のころは、ほとんど寝ない分、人の倍生きているぜ!みたいなことを思ったことがありましたが、年齢とともに思わなくなるのは、きっと体に負担がかかっていたんでしょうね。寝れるときには寝る、働くときは働く。当たり前にメリハリつけて頑張りたいと思います。